小田原にて事業承継を思う

 

先日、所用で小田原を訪問しました。ついでに平成の大改修を終えた小田原城にも立ち寄ってみました。

「昔は、象がいたなぁ。おっ、猿はまだいるんだな。これは秀吉をイメージしているのかしら。」などと思いながら天守閣を見学、後北条氏5代の歴史に触れてきました。念のために、後北条5代を記すと、以下の通りです(カッコ内の説明は、小田原市のHPによる)。

 

初 代:北条早雲(戦国武将の魁)
2代目:北条氏綱(関東支配の礎を築く)
3代目:北条氏康(文武両道の名将)
4代目:北条氏政(まじめ実直な慎重派)
5代目:北条氏直(北条氏の夢潰えし)

 

初代の北条早雲が小田原城を領有したのは1496年、豊臣秀吉による小田原の役で小田原城を明け渡したのが1590年ですので、90年以上の間、5代にわたり一族で協力しあい、領国経営を行っており、他の戦国武将と比較すると、一族間の争いが少ないように思われました。

その要因を歴史の素人である私が考えると、北条早雲およびその家来は他国から来た「よそもの」であり、よそものが勢力を維持するためには団結力が強くないといけなかったこと、当主・配下に優秀な武将が多かったこと、なども理由に挙げられると思いますが、2代目から5代目までの治世を支えた北条幻庵という武将がいたこと、もその要因に挙げられるでしょう。

 

北条幻庵は、初代早雲の3男で、亡くなったのは小田原の役のわずか8ヶ月前、享年97才と言われています。

長寿とされた徳川家康の享年は73才ですし、織田信長が好んだとされる「敦盛」の一節「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」を当時の人生観と捉えると、北条幻庵が戦国武将のなかでも10本の指に入るくらい長寿な武将であり、一族の長老としての存在感は、現在の私たちでは想像ができないくらい大きかったものと思われます。

 

後北条家には、早雲が伝えたとされる21箇条に及ぶ、簡潔でわかりやすく日常生活における注意点や心得が事細かく具体的に記され家訓があったとされており、このような家訓や代々にわたる領国経営の方針が、北条幻庵によって後継者に的確に伝えられたのではないかと推察します。

 

この家訓や領国経営の方針、現在の企業経営の言葉に言い換えるのであれば、「ビジョン」を共有していくことの重要さは、現代の事業承継でも変わりはありません。

 

現代の親族内承継での対策というと、相続税を軽くするための株価対策や株式の分配方法をどうするのか、ということに目が行きがちですが、会社が目指しているビジョンを後継者・経営幹部と共有していく作業も同じくらい重要な事項です。

事業を承継する後継者が、時代の変化にあわせ新しい取組を行っていくことは必須なのですが、従来のビジョンを否定してしまっては、先代とともに苦労を分かち合った幹部・従業員との間で意見の対立が生まれてしまい、別の後継者を模索する「お家騒動」のようなものが起きる要因となりかねません。

 

会社のビジョンを実現するために何を行ってきたのか、今後何をしていく予定なのか、後継者が事業を引き継いだ場合に、どのようにしてビジョンを実現していくのか、このような内容を現経営者、後継者、経営幹部の間で共有し、後継者に必要な知識・経験をしっかりと教育していく、これが、現代においても円滑な事業承継を行う要諦となります。

 

後北条氏に関しては、「最後に大負けしてしまった残念な一族」という印象をもっていました。

確かに、5代目にて後北条氏の大名家としての夢は潰えてしまうのですが、後北条氏の最大版図を築いたのは5代目氏直の時代(実権者は4代氏政だったようですが)ですので、初代から5代にわたり、事業承継に成功し続けた一族という新たな見え方ができた小田原訪問となりました。

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